| 観劇リポート『もう花はいらない』 |
岩月 邦彦 1 2 |
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また原作と演劇における主人公の性格の違いであるが、妻の浮気が発覚した時、河合は彼女に対する性欲からナオミが出した条件を全てのみ、経済的・精神的・肉体的に、完全に彼女に屈服するのに対して、河村は保護者という立場から彼女を対等の人格として認め、もう一度やり直そうとするのだが、そう簡単に浮気をした相手を許せるほど人間とはお人好しなものなのか、という疑問は残る。河合がナオミとの愛欲の世界に耽溺し、身の破滅の中の陶酔に喜びを見出したのに対して、河村はどこまでも妻の不貞を許す広い心の中に陶酔したとも言えなくはないが、私はそのような論理に違和感を覚えるものである。
ここまで書いてきてしみじみ思うのは、むしろ、世に知られた小説を演劇として作品化することの無意味さである。『知人の愛』の自己の陶酔感を基調とした、完結した世界を舞台上で再現することは、俳優による生のコミュニケーションが現出するという長所はあるが、原作の身の破滅を肯定するという思想の一貫性が薄められ、表現の精緻さも文章に劣っているように思う。それでもなお、原作を舞台上に再現することの意味を問うとすれば、それには演劇の「無意味性」ということが言えるように思う。人生は本来、一回きりのものである。その中で一人の人間がどれだけ意味のあることができるのか、考えてみれば疑わしい。小説は一度書かれたものは何度でも読み返すことができる。本として出版されたものは、その後、数十年にわたって見返すことが可能である。一方演劇は、公演期間が終わってしまえば元の木阿弥、劇場には何も残らない。台本は残るが、それには、演劇の柱となる俳優の肉体が欠けている。10年後、20年後に台本を基にその作品を再現することは可能だが、俳優の肉体を再現できないことはもちろんのこと、再び集まった人間の性格によって、全く異なった作品になってしまうこともありえる。つまり、私が、ある上演された芝居に居合わせることは一回限りのことなのであり、それは人生を構成する大事な時間の一つなのである。 ここで小説の愛好者の側から反論が出よう。小説を読んでいる時間も人生の大事な一部分である、と。しかし、現代日本には、皆が自分に関心を持ちすぎて他人の悲しみに対して無関心になっている現実がある。自らの世界に閉じこもり、ナオミの肉体を愛好することにのみ喜びを見出した河合の姿は、奇しくもこの現象の予言となっている。山田氏が当日パンフレットの見返しに書いたように、今から80年もの昔の作品であるにも関わらず、である。この閉塞感を打破するという意味合いにおいては一人で部屋の中で味わう小説よりも、外に出掛けて行って多くの人と交感する時間を持つ演劇の方が、楽しみな可能性を秘めている、と言えるのではないだろうか。 今となっては、私には山田氏が『知人の愛』を『もう花はいらない』として上演した理由が分かるような気がしてならない。それはすなわち「人生は無意味だ、けれどもそれを確認し合う作業には意味がある」というメッセージである。外部の人間でありながら、快刀乱麻を断つが如く台詞をはき続ける時子の姿は、おそらく氏自身の思想の投影であろう。演劇はあまり経済的な成果が期待できない芸術であるから取り組む際にはどうしても高い志が必要なのだが、谷崎作品にあえて挑むということは、常識的に考えて、興行的にはどうか分からないが、芸術的に原作を越える成果を獲得することは難しい。それでもなお、上演を試みるということの中に、私は常に挑戦者であり続けようとする山田氏の熱い想いを感じた。あくまで人のつながりを信じる姿勢に共感を寄せるからこそ、私も今後から、ユニークポイントを応援し続けていきたい。 |
| 名前:岩月 邦彦(24歳) 所属:絶対安全ピン 早稲田大学第一文学部卒、現在は就職活動中。趣味は映画・演劇鑑賞、読書、陸上、バスケ、ボランティアなど。同じ劇団の太田麻希子さんが出演した「アンダーグラウンド・カフェ」を観たのがユニークポイントを知ったきっかけ。自分の劇団との作風の違いは、各々の登場人物が社会的な対面をしっかり守ろうとすること。これからは演劇だけではなく、映画、能・狂言、歌舞伎、バレエ、オペラなど幅広く鑑賞し、比較、考察していければ、と朧気ながらに考えている。 |