現代・東京・演劇考──ユニークポイント『もう花はいらない』を中心に──

松本 和也

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【0 現代・東京・演劇】

 東京を中心とした、いわゆる小劇場の演劇シーンは、これまでおよそ10年を1つのサイクルとした枠組みの中で語られ・記述されてきた。鈴木忠志や唐十郎らの60年代におけるアングラ演劇、つかこうへいの70年代、野田・鴻上の80年代を経て、90年代には岩松了・宮沢章夫・平田オリザらの舞台が〈静かな劇〉(扇田昭彦)と呼ばれて今日に至る。もちろん、今なお〈野田・鴻上崩れ〉(小谷野敦)は後は絶たないし、亜流〈静かな劇〉もはびこってはいる。また、ここ数年は、奇を衒った一点主義のパフォーマンスも目立つ。こうした見取り図への批判的検討は今おくとして、ここで確認しておきたいのは、演劇シーンは、すでにポスト〈静かな劇〉とでも呼ぶべきステージにあるということで、その意味で、今世紀に東京で現代演劇に関わろうとする者は、〈静かな劇〉という様式/パラダイムとの距離を戦略的に考えることが要請されているといっても過言ではない。
 ここで筆者の考える〈静かな劇〉について、平田オリザの仕事を想定して、簡単に触れておきたい。まず、この言葉をジャーナリズムに乗せた扇田は〈おおげさな芝居がかった演技やせりふを排し、日常を抑制したタッチで描く舞台〉と要約しているが、より具体的には、@ストーリーに依存しない日常の会話劇を、A意識され虚構化された自然としてミニマムな身体表現の内に演じ切ること、だといえるだろう。中でも、平田オリザの演劇においては、B現代口語に即応した身体表現が俳優を通して演じられており、その意味で平田オリザ・青年団の舞台は、すでに様式化されているといってもよい。
 今、身体という用語を用いたことでも明らかなように、(少なくとも)平田オリザの〈静かな劇〉とは、明らかに60年代に提起され、それ以降批判的検討を通じて蓄積されてきた〈演劇的「知」〉(安田雅弘)を踏まえたものであり、その意味で、世間のイメージとは食い違うかもしれないが、青年団とアングラ演劇とは、演劇への姿勢──具体的には、言葉の意味に頼らずに、言葉と身体の相関関係を問うこと、そのことを目指した演出、そうした作業自体を演劇として舞台化するということ、こうした演劇という表現手段の現代にいける有効性を問うという問題構成において地続きな部分を多く持つものなのだ。
 ここで試みに、〈静かな劇〉以降の演劇シーンにおいて、同様の問題構成から舞台づくりをしている(ように見える)若手劇団を想起してみる時、そのほとんどがこまばアゴラ劇場で公演を打ったことがあるという事実に、まずは驚かされる。ここで筆者が想定しているのは、ポかリン記憶舎・reset-N・ort・舞台集団座敷牢・弘前劇場・birds- eye view(順不同)などだ。一見何の共通性もないようにみえるかも知れない上記劇団に共通しているのは、言葉に即した身体表現が戦略的に構築されており、そうした身体を俳優が舞台で演じる=生きるという点である。例えば、bevがポップな言葉をポップな身体で演じてみせる一方で、座敷牢は文語を文語的身体で生きてみせる、といった具合だ。では、同じくこまばアゴラ劇場で公演を打っているユニークポイントはどうかということになれば、今述べてきた観点からは、その名を加えるのをためらわせる何かがあるように思う。
 現在のユニークポイントには、〈お手軽なものが大勢を占める現在の小劇場界にあって、丁寧な芝居づくりという点では、ユニークポイントは他の劇団を大きく引き離している〉という若尾隆司の評言が、最もふさわしい。もちろん、若尾はユニークポイントを積極的に評価しているのだが、少し意地悪く評を裏返してみるならば、まとまっていて質も高いが凡庸である、ということにもなる。その凡庸さを、今"スタンダード"と呼ぶならば、現代・東京・演劇シーンにおいて、良くも悪くもユニークポイントが"スタンダード"であるという印象は、『もう花はいらない』においてもよく体現されていたように思う。
 この文書は、以上の問題意識・演劇感に基づく筆者が、現代・東京・演劇シーンにおける演劇なるもののゆくえ(可能性)を探ることを目指しながら、ユニークポイント公演『もう花はいらない』という舞台を検証しようとするものである。