「演劇」の現代──三条会『幸福の王子・サロメ』──

松本和也
 三条会の舞台は、とにかく楽しい。
 
 その魅力は、例えば、様式化された身体所作・強度と緩急のある語り・緊密な構成とユーモアなどに顕著だが、新作『幸福の王子・サロメ』もまた、こうした三条会らしさと新たな一面が錯綜する、楽しさに満ちた舞台だった。そしてこの楽しさは、すぐれて「演劇」的な集団である三条会が、他ならぬ「演劇」を上演したことに由るように思われた。
 
 三条会『幸福の王子・サロメ』は、さしあたり、ワイルドの2作品を原作とした構成演劇である。かけ離れたカラーをもつかにみえるこの2作は、時間軸から表層を追えば、『幸福の王子』がまずかなりの部分演じられ、双方が入り乱れる場面があり、後半は『サロメ』がメインとなる。ただし、その舞台ではストーリーに奉仕した原作の再現=表象はほとんど企図されておらず、徹頭徹尾「演出」が介入=偏在することで、「ワイルドの『幸福の王子』と『サロメ』を現代演劇として上演すること」そのものが眼前の舞台で繰り広げられる。こうした様相を、「演出」による読解・解体・再構築であるとか、あるいは「演出」の細部を、脱構築・遅延などと評すこともできるかもしれない。しかし、こうした評語からは『幸福の王子・サロメ』の魅力はすくいとれないばかりか、三条会はそれを打ち破る力強さで、逆に批評言語の貧しさを、その豊かな舞台で証明しさえするだろう。

 関美能留による構成・演出は、『幸福の王子・サロメ』という2つのタイトルが並置された公演名に端的に表れている。便宜的にいうなら『幸福の王子』は説明的な語りが主軸をなし、『サロメ』は、多くの引き算を経た後の王とサロメの内面のドラマがシンプルな装いで再現される(引き算の結果、この舞台にヨカナーンは登場しない、その首すらも)。ただし、この2つは、単に1つの演劇作品として上演されるだけでなく、上演時間の経過につれて双方のパートの演技/記憶が重層化されていくという構造を持つ。圧巻のラスト・シーンがサロメの「声」のドラマであったことから逆算するならば、もともとサロメを演じる俳優は、「女」というクレジットのもと、開幕時から舞台にその身体をみせており、『幸福の王子・サロメ』とは、「女」がサロメへと、その内面において変貌を遂げるプロセスそのものでもある。その「変貌」に「演劇」的な魅力の源泉の1つがあるのは間違いない。ただし、「女」をサロメ的な存在に変貌させるには、『サロメ』における王と王女は欠かせないし、『幸福の王子』の語り部・王子・ツバメもまた不可欠の契機(踏切板)でもあったはずだ。そして、ストーリーをベースに各場面をみた時わかりにくそうにも思えるこの舞台は、しかし、俳優の一挙手一投足が瞬時に空間を塗り替え、その声が所作が、『幸福の王子』あるいは『サロメ』ワールドを立ち上げ、『幸福の王子』的なあるいは『サロメ』的なモチーフを現前させ、それらは舞台空間に漸次上塗りされていく。だから、観客は、色や音も含めてただ舞台を観ていればよく、すると「演劇」の手触りが興奮とともに手渡される。それは、現代人の五感に向けられた、自在な演出を経た「演劇」の核なのだ。

 いずれにせよ、構成・演出を語れば俳優に至り、その逆も又然り、という具合に、三条会においては要素を個別に語ることが難しく、その相互関係の緊密ぶりが伺える。つまるところ三条会は、構成テキストを1つの焦点として、演出と俳優の交渉・拮抗の力学によってその舞台を生成しては観客を巻き込むことで、舞台に「演劇」を現象させていくのだ。

 「当りまへのことを当りまへに語る」(太宰治)ことが困難であるように、「演劇」をそれとして上演することは、現在おそらく極めて難しい(私の経験に照らしても、「演劇」に出会う機会は稀である)。だから、いくら自明に聞こえようが、三条会『幸福の王子・サロメ』は「演劇」であった、といわねばならない。そうでなければ、世紀末的頽廃美のイメージにまみれたサロメの語る「恋」が、1時間の上演を経た後、あんなにも清らかな激情で、あれほど甘美に、そしてロマンティックに聞こえるはずはないのだから。(2004.2.22.)

松本和也。1974生。日本近・現代文学研究/現代演劇研究・批評。